※この記事は2016年12月7日に書かれたものを、サイト移転に伴い、再編集してこちらに公開しました。
ピアノ、弾いてました。でも…
小さい頃から中学生になるくらいまで、ピアノをかなり本格的に取り組んでいました。
小学校の時は某コンクールの全国大会で2度ほど入賞したりしています。
本当に小さい頃、何故ピアノを弾くようになったかは全く覚えていません。
ピアノの先生だった母の影響で始めた…とは思いますが、自分で弾きたいと言ったのか、やらせてみたらなんか楽しんでいたのか…どうなんでしょう。
母にピアノを習うわけでは無くて、近所で有名な先生に教わりに行くようになりました。
まぁ、なかなかのスパルタというか、当時は特に厳しい先生でした。
自分で書き込んだことはないのに楽譜が真っ黒だったのを覚えています(笑)
レッスンは、こうやって弾きなさいを徹底的に教わるという形でした。自分でこうしたいとか、こう弾きたいは特になく、言われた通りに弾くことをやり続けました。
音楽は好きだったんでしょうが、曲とか作曲とか上手なピアニストとかにはほとんど興味がありませんでした。
言われた通り弾けるようになって、コンクールの結果が出て、先生や親、周りの大人に褒められる、ちやほやされるというのが嬉しかったんだと思います。
当時、なかなかの田舎でピアノがバリバリ弾ける男子、というとかなり物珍しい存在でしたし、なかなかのお調子者だったので、いろんなところで目立ちました。
コンクールの後かなんかで、全校生徒の前でピアノを弾くと何故か笑われたりしました。
周りから段々と「調子に乗るな」という言葉をかけられるようになりました。
子供の頃はよくある話ですが、大人や親にも言われるようになりました。
(周りと馴染めず、変に目立つことを避けようとしてくれていたと思います。)
ピアノを弾くのも段々と楽しく無くなりました。
言われた通りに弾くことを求められていたので、弾きたい曲を弾こうにも譜面をある程度読んで自分で音楽を作っていく方法を知らなかったので、出来ませんでした。
それでも、ピアノと言えば…で小学校の校歌の伴奏やら何やら弾かなければならない機会が増えて行くのは複雑な心境で、校歌を弾くのが嫌で逃げたりもしていました。
こうやってピアノからフェードアウトしていく頃に、
中学校に入って吹奏楽部に入って
どっぷり吹奏楽にハマって
吹奏楽オタクになって
音楽の楽しみを知って
高校から東京に行くことを決めて
…いつの間にかオーボエを吹くことを仕事にしています。
ピアノは今でもあまり弾けません。
当時弾いていた曲をなんとなく…?…で、新しい曲を弾くのはめちゃくちゃ苦労します。
高校大学の副科のピアノは小学校からの貯金でやりきったような感覚です。
でも、音楽との出会いがあって、スタートをピアノを弾くことから始められたのは音楽を続けていくことになる僕にとっては幸運でした。先生方や親には本当に感謝しております。
オーボエを続けている理由
では改めて。
何故、あの時ピアノを続けられなかったのでしょうか。
ピアノを続けていくことによって得られる喜びや、上手になりたいという気持ち、ピアノが好きという気持ちより、やめて楽になりたいという気持ちが勝ったからと言えるでしょう。
音楽はなんとなく好きだけど、何故こんな大変な思いをしてまでやらなきゃいけないんだろう、と。
当時の僕自身がピアノと向き合って、努力していくことによって、楽しさを見出せなかったのもあります。
では、何故オーボエを続けているのか。
ちょっとしたことで音が出なくなったり
指はややこしかったり
体力的にも精神的にもキツさを感じやすく
ギネスブックにも載るくらいに難しい楽器であるオーボエ。
ましてや、手が極端に震えることが始まっていた僕が毎回の本番で地獄のような思いを続けても、何故「オーボエを吹く」ということを選んだのか。
それは、オーボエを吹く楽しさ、オーボエを吹く幸せを知ったから。
オーボエを吹くことで生じる困難やストレスと付き合っていくだけの価値があると思ったから。
音楽の本当の楽しさを知ったから。
震えというストレスに立ち向かっていく価値があると思い続けてこれたから。
(もうギリギリのところだったけれど)
何よりオーボエが好きになってしまったから。という理由だと思います。
続けていきたいというモチベーションがあったわけです。
先生、師匠、先輩
僕が中学生の頃に音楽やオーボエを教わった先生には、オーボエを吹けば、オーケストラや吹奏楽、室内楽、ソロ…といった素晴らしい音楽の世界が広がっていて、こんな素敵な音楽を奏でることが出来る、ということを教わりました。
所属した吹奏楽部は全国大会を狙うような、熱心な活動を続けている部活でしたが、音楽そのものをとても大事にする先生だったので、純粋にオーボエが上手くなりたい、に向かえたんだと思います。
気持ちに火がついた僕は部室にあるCDやビデオを見聴き漁り、どんどん音楽の世界にのめり込んでいきます。
ピアノを弾いていた時は自分の演奏する曲を録音で聴こうともしなかったのに、です。
それから、先生は、オーボエの難しさや、当時の僕の人付き合いの下手さ、今で言うところの不登校気味…というか引きこもりがちな性格を理解してくれていて、僕の上達の過程を急かすことなく待っていてくれていました。
ある程度オーボエが吹けるようになった3年生の時には僕の演奏を一番に評価してくれていましたし、信頼してくれていました。学校の存在すら知らなかった僕に「藝高に行け」と言ってくれたのも先生です。
任せてくれていたというか、いろんな面で好きにさせてくれていたのも音楽やオーボエに向き合うことが出来た理由かも知れません。
上達するために変にプレッシャーをかけられることもありませんでした。
(吹奏楽部全体の指導としては大変厳しいものがありましたし、要求もとても高く、決して優しい先生ではなかったですが、少なくとも「音楽」を感じさせないような練習をさせることはありませんでした。)
僕が本番や合奏なんかでかなり手が震えることも知ってくれていましたが、特に問題にすることもなく、変わらず信頼してくれて、コンクールや本番で沢山の大事な部分を任せてくれて、チャレンジさせてくれました。
(この頃は震えても音にはそこまで影響が無かったということもあるかも知れません。)
これは今となっては本当にありがたい事だと思います。僕がガクガクに崩れたらある意味終わり、だったのに、先生は僕の力を信じてくれていた。
すごいことです。
(吹奏楽部は僕が中3の時に全国大会に初出場。見事金賞を受賞します。僕の人生を変えた本番でした。この話もいつか書きます。)
その後に出会ったオーボエの先生もいろんな方がいらっしゃいましたが、それぞれの形で、オーボエの楽しさ、オーボエを吹くことの幸せをいろんな形で教えて下さりました。
一つ一つが価値あるものとして僕の中で活かされています。
藝高からずっとお世話になっているオーボエの先生、師匠は初めて会った時からしばらくはめちゃくちゃ厳しい人でした。
見本は沢山吹いてくれましたが(これもめちゃくちゃ有難いですよね)
話すことと言えば、今吹いた演奏がいいのか悪いのかしか言ってくれない。
(僕も相当ビビっていますからコミュニケーションが取れないのは当然です…)
ですが、段々とコミュニケーションが取れるようになると、本当の意味での音楽そのものの素晴らしさや、音楽と共に生きていくことの素晴らしさ(…そして食と酒の素晴らしさ、特に鮨の素晴らしさ…)を教えてくださりました。
優秀な同級生達がいる中で、震えに悩み続けて、普通だったら大事な現場なんて任せられないような状態で、ある意味劣等生だった僕の音楽、実力を信じてくれて、沢山の現場に誘って頂き、ご一緒させて頂きました。
そして震えの状況について客観的に意見をくれました。
先生は震えに対する直接的なアプローチは持ってらっしゃらなかったですが、現場に連れて行って頂くことで、音楽をやりたいというモチベーションを育て、守ってくださっていました。
自分の音楽に対する考え、感じ方に一生残り続けるであろう音楽体験を沢山経験させて頂きました。今でも会えば沢山の話をしてくださったり、アドバイスを頂いたりと、大変お世話になっております。
そして、卒業前、卒業してから外の現場に出るようになってから、一番ご一緒させて頂いている先輩。
プロの世界でやっていくこと、現場でのいろはを教えていただいたと言っても過言ではないでしょう。
震えの症状がどんどん酷くなっていった時期に、演奏する仕事が皆無になりそうな時にも気にしてくださって、プレッシャー、リスクの少ないような本番に呼んでくださる。
様子を見てくださる。
僕の実力を信頼してくれて、いつか…と信じてくださっていました。
そんな付き合い方をしてくれる先輩がいなかったら、震えと向き合うこと、改善していくことに立ち向かうなんてとっくに諦めていたでしょう。
他にも沢山の先輩方や後輩、先生方、仕事でお世話になっている方々、苦しい時にも変わらず仕事を依頼してくださった方々のおかげで、今でもこの仕事を続けています。
人との出会いは財産ですね。思い返すと本当に有難い出会いが数多くありました。
沢山の不義理も、期待に応えられないことも沢山あったと思いますが、オーボエを続けたいという気持ちはこういう方々のおかげで、折れることなく、あり続けました。
結果的に、「震え」にずっと立ち向かい、アレクサンダー・テクニークとの出会いやお医者さんとの出会いもあって、改善していくところまで何とか諦めずに探求を続けていけました。
僕だからこそ出来ること
…また長くなりましたが…。
では、例えば、僕のような変わった(?)生徒に出会った時に、今の自分が指導に関わるとしたら、何が出来るのか。
僕が指導に関わる時に大事にしたいと思っているのは、
10年後20年後も音楽が好きでいてくれる、続けていきたいと思っていてくれるようなことを伝えたいということ。
僕の先生がそうだったように、音楽そのものの楽しさ、素晴らしさ、音楽やオーボエと共に生きていくことの素晴らしさ、素敵なところを伝えられるようになること。
音楽を続けていくことが厳しい、苦しい場面に遭遇してしまった人たちの
「音楽をやりたい」
というモチベーションを守りたいということ。
その苦しさから少しでも早く脱出、改善に向かえるような方法、建設的な手段を、その人それぞれに合わせて、出来るだけ多く提案出来るようになること。
自分自身で成長していく力、そして、自分自身を応援していく力を育てたいということ。
以上のようなことを思いつきました。
もし、音楽を続けていきたいのに、
苦しいことが起こったり
困難にぶつかったりして
音楽を続けていくモチベーションが下がっている方
どうにかしたいのにどうにも出来ない方
知りたいことがあるのに分からない、教われないという方
…等がいましたら、遠慮なくメッセージを下さったり、レッスンにいらっしゃってください。
レッスンに関する質問、希望等はTwitterやFacebookのメッセージ
またはお問い合わせまで。
※ただし、ネット上のみでの質問に対する回答は、
具体的によく分からない内容のもの
具体的な曲の演奏方法等
返答いたしかねる内容のものがあったり、通常のレッスンや演奏等のお仕事の対応以後の時間になってしまうことをご了承ください。
現在、中高生や大学生、一般の方、音大生、プロの方までいろんな方がいらっしゃっております。
他の方々が出来ない、身体的、精神的、音楽的…それぞれに対して様々なアプローチ、提案が出来ると思います。
最後に最近の呟きをいくつか。
「人生の辛い経験は無駄になることはない」…これはおそらく事実。
— 是澤 悠 (@yk8139) 2016年12月6日
だからといって「辛い経験をしろ」とか「辛い経験は我慢しろ」はちょっと違うような気がしています。
辛いことに対して、助けを求められたり、どうにかしたいという相談を受けた場合、建設的に解決に向かう方法は提案してあげたい。
辛い経験、我慢しなければならない経験、耐えなければいけない経験が人を育てることもあるけれど、酷く傷ついて倒れてしまうことだってある。
— 是澤 悠 (@yk8139) 2016年12月6日
内容、程度次第なことは当然あるけれど、「辛い経験」が「良い経験」「役に立つ経験」に変換出来るのか、その人の受け取り方、やり方次第ではあると思う。
だからこそ、個性があると思う。個人差。個人によって違う。一人一人の成長の仕方、学び方、上達のための手段、選択する方法が違って当然。同じところを目指していても違う道がそれぞれにあると思う。
— 是澤 悠 (@yk8139) 2016年12月6日
指導に関わる時に、出来る限り多くの手段を持っておきたい。人それぞれに合う、成長を促す方法を提供できるようになりたい。
— 是澤 悠 (@yk8139) 2016年12月6日
演奏をする時に、どんな状況にも対応できる手段を持っておきたい。求められること、それによって自分がやりたいことをやるための方法を沢山持って、使って音楽をしたい。
自分語りが長くなりました。
自分のこれまでを整理していくのはこれからの自分のためにも大事なことなのかな、と思っています。
こういうことが、考えられるようになったのはとても幸せなことですね。
先日の本番で活躍した楽器2本。
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